ここに難問がある。機械と自分との違いにおける人間の定義はOK。では自分と他人を比べた場合の人間の定義は?
あなたの隣にいる人は本当に人間ですか?そもそも存在していますか?
はっ馬鹿馬鹿しい!人生はそんなことを考えていられるほど長くはない。
「人間の形をし、人間と同じように喋り、人間と同じように動けば、それは人間だ。」
デカルトの言葉があれほど有名にも関わらず、実際の世界は上のような単純な定義で成り立っている。
実際、人生はそんなことを長々と考えるには時間が無さすぎるのかもしれないが。
ただ、このことは我々が如何に周囲の人間に気をつけていないかという事実の裏返しでもある。
変身が上手い異星人が人間の格好をしていれば、人間として認定してしまうかもしれない。
そんな馬鹿な!少なくとも彼らは存在しているに決まってる?
それすら実際には疑念が残る。
夢を見たことのない人は居ないだろう。あの夢を創っているのは紛れもなく自分自身である。
予知夢の話はおいといて。
つまり、自分でストーリーを作成し、登場人物を複数(?)登場させ、音響効果やその他様々な効果を
発生させて観る者にリアルと同様な感覚を与える。この作業を寝ている間にリアルタイムで辻褄を合わせながら、シナリオライター、舞台監督、音響担当、更に何も知らない観客、といった多数の人間が通常する仕事をたった1人で行っているのだ。(多少の矛盾は時間軸の入れ替えで誤魔化しているとは思うが)
つまり、起きている時に比べ寝ている時の人間の脳の能力は非常に強力で、脳には潜在的にリアルタイムで
幻想を非常にリアルに感じさせるだけのパワーを秘めているということだ。だから、見えたり触って感じたり、といった事柄は確実な証拠にはなりえない。
それゆえ、これは非常な難題と言える。
ただ、このことをより真剣に考える人が多ければ、キリストが十字架に磔にされることも無かったのでは
ないか、と思う。
聖書によると、彼は自分の未来が分かっていながら敢えて死に臨んだ。そして、その際の彼の行動に
より、それまで迫害していた民衆はやっと彼が何者であるかに気づいた。
もちろん聖書であるから、後付や都合のいい解釈はある。
しかしここで私が言いたいのは、彼の言葉だけでは民衆は動かず、行動や奇跡によってのみ彼を、
彼の精神を信じた、ということだ。
また、熟年夫婦や長年連れ添ったカップル、こちらもお互いの心が分かっているといいつつ、
実は長年の経験則による対応に過ぎなかったりするかもしれない。
ここから分かることは、人は生きる際にこれほど他人を必要としていながら、その他人の心を行動、上辺に
よってしか理解出来なかったということだ。
デカルトの言葉が他人には無力だったように、哲学はこの問題に対しては限りなく無力だ。
数ある哲学者の中でも、実際に結婚していた哲学者は私の知っている限りでは1人しか居ない。(結婚しているかどうかが幸福の指標とは思わないが、一例として)
概して彼らは一様に不幸せだったように思える。哲学者になるきっかけが先天性の問題からでったとしても、突き詰めていった時にこの問題に悩まされなかった人は少ないと思う。
それに対し、宗教はこの問題をただ「信じる」ことで解決しようと試みているように思える。
遠藤周作は、殉教を虚栄心ゆえと切り捨てるような近代の考え方を嫌っていた。
確かに虚栄心もあったかもしれない。しかし、それだけではない何かがあったのではないか、と。
私は宗教者ではない。もちろん哲学者でもない(なれない)が。
ただ、この問題の解はまだ分からないが、この「信じられる」だけでも出来たとすれば
自分の人生は上出来と言えるだろう。
(´・ω・`)そんな日がくればいいなぁと妄想。
少なくともこんなこと考えてる時点で駄目かwww
あなたの隣にいる人は本当に人間ですか?そもそも存在していますか?
はっ馬鹿馬鹿しい!人生はそんなことを考えていられるほど長くはない。
「人間の形をし、人間と同じように喋り、人間と同じように動けば、それは人間だ。」
デカルトの言葉があれほど有名にも関わらず、実際の世界は上のような単純な定義で成り立っている。
実際、人生はそんなことを長々と考えるには時間が無さすぎるのかもしれないが。
ただ、このことは我々が如何に周囲の人間に気をつけていないかという事実の裏返しでもある。
変身が上手い異星人が人間の格好をしていれば、人間として認定してしまうかもしれない。
そんな馬鹿な!少なくとも彼らは存在しているに決まってる?
それすら実際には疑念が残る。
夢を見たことのない人は居ないだろう。あの夢を創っているのは紛れもなく自分自身である。
予知夢の話はおいといて。
つまり、自分でストーリーを作成し、登場人物を複数(?)登場させ、音響効果やその他様々な効果を
発生させて観る者にリアルと同様な感覚を与える。この作業を寝ている間にリアルタイムで辻褄を合わせながら、シナリオライター、舞台監督、音響担当、更に何も知らない観客、といった多数の人間が通常する仕事をたった1人で行っているのだ。(多少の矛盾は時間軸の入れ替えで誤魔化しているとは思うが)
つまり、起きている時に比べ寝ている時の人間の脳の能力は非常に強力で、脳には潜在的にリアルタイムで
幻想を非常にリアルに感じさせるだけのパワーを秘めているということだ。だから、見えたり触って感じたり、といった事柄は確実な証拠にはなりえない。
それゆえ、これは非常な難題と言える。
ただ、このことをより真剣に考える人が多ければ、キリストが十字架に磔にされることも無かったのでは
ないか、と思う。
聖書によると、彼は自分の未来が分かっていながら敢えて死に臨んだ。そして、その際の彼の行動に
より、それまで迫害していた民衆はやっと彼が何者であるかに気づいた。
もちろん聖書であるから、後付や都合のいい解釈はある。
しかしここで私が言いたいのは、彼の言葉だけでは民衆は動かず、行動や奇跡によってのみ彼を、
彼の精神を信じた、ということだ。
また、熟年夫婦や長年連れ添ったカップル、こちらもお互いの心が分かっているといいつつ、
実は長年の経験則による対応に過ぎなかったりするかもしれない。
ここから分かることは、人は生きる際にこれほど他人を必要としていながら、その他人の心を行動、上辺に
よってしか理解出来なかったということだ。
デカルトの言葉が他人には無力だったように、哲学はこの問題に対しては限りなく無力だ。
数ある哲学者の中でも、実際に結婚していた哲学者は私の知っている限りでは1人しか居ない。(結婚しているかどうかが幸福の指標とは思わないが、一例として)
概して彼らは一様に不幸せだったように思える。哲学者になるきっかけが先天性の問題からでったとしても、突き詰めていった時にこの問題に悩まされなかった人は少ないと思う。
それに対し、宗教はこの問題をただ「信じる」ことで解決しようと試みているように思える。
遠藤周作は、殉教を虚栄心ゆえと切り捨てるような近代の考え方を嫌っていた。
確かに虚栄心もあったかもしれない。しかし、それだけではない何かがあったのではないか、と。
私は宗教者ではない。もちろん哲学者でもない(なれない)が。
ただ、この問題の解はまだ分からないが、この「信じられる」だけでも出来たとすれば
自分の人生は上出来と言えるだろう。
(´・ω・`)そんな日がくればいいなぁと妄想。
少なくともこんなこと考えてる時点で駄目かwww
コメント
目の前の人間に向かって
てめえは人間じゃねえ、この外道!
とか絶叫してしまう日がこないことを祈りながら日々を生きてますw
(;´ω`)ん〜、自分もそう思ってるんですけどね>滅多にいない。ただ、他人からするとそこそこ居るそうな・・・。
他人の目になって自分を見たらどう思うんでしょうね。多分嫌気がさしそうですが。
あれですね、こんな顔をした人間は多分こんな性格、ていう想像が大体当たってるように、結構Majorなキャラクタはパターン化されてるんで・・・MinorなキャラなんでしょうねKEM3w