取り急ぎこの話。
著作権上問題があるかもしれないけれど、引用したかった。




司馬遼太郎著「風塵抄 二」中央公論社より抜粋

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 思いだしたから、書きつけておく。
 日本の北に、ロシアのカムチャツカ半島が、南に向かって垂れている。その南端から北海道まで、首飾りのように二十四ほどの島々がならんでいるのが、千島列島である。

 すべて日本領だった。
 いまは日露間の熱い湯のなかにある。
 この島々が日本領であることは、明治八年(1875)に日露間で調印された”千島・樺太交換条約”によって、たとえば東京都が日本領であると同じくらいに明らかなことであった。すくなくとも1945年八月十八日まではである。
 太平洋戦争中、この劣等はアメリカ軍の航空機や艦船の南下路にあたっていたため、日本はここに守備隊を置いた。
 カムチャツカ半島南端から数えると、第一島が占守(シュムシュ)島、第二島が幌筵(パラムシル)島で、この両島に一個師団が置かれた。
 兵力はやがて他の戦線にひきぬかれたため、末期には六千ほどになった。

 日本が連合国に降伏したのは、周知のように、1945年八月十五日である。
 すべての戦場で、戦火が熄(や)んだ。

 ところが、信じがたいことに、降伏から三日後に戦争をせざるを得なかった部隊があった。さきにふれた八月十八日のことである。ソ連軍が占守島に銃砲火とともに侵入してきたのである。世界戦史上、例がない。

 型どおりの夜襲だった。まず同日の午前一時前後、カムチャツカ半島の南端から重砲弾が飛来し、次いで艦砲の砲声がきこえ、未明、島の北端の竹田湾に進入軍が上陸した。
 おどろくべきことだった。おなじことが千葉県や山口県でおこったと想像しても、事態の質は変わらない。

 当時、島には私の友人たちがいた。高木弘之、芦田章、田中章男、吉村大、木下弥一郎らだった。
 みな戦車第十一連隊に属していた。連隊長は池田末男大佐で、この人は私どもが戦車学校で教育をうけていたころ、教頭のような職にあった。
 いまでも、私は、朝、ひげを剃りながら、自分が池田大佐ならどうするだろうと思い、その困惑の大きさを想像したりする。サッカーのゲームがおわってから、相手チームが突っこんできたようなものである。それも三日後にである。
 池田大佐は、午前一時すぎ、隣りの島の師団司令部に命令を仰ぐべく電話をかけたが、司令部もどうしていいかわからなかった。当然ながら、司令部は東京の大本営に電話をした。が、大本営も当惑した。
 くりかえすが、日本はすでに降伏している。降伏後の日本を処理すべき連合軍最高司令官はマッカーサー元帥だが、かれはまだ日本に到着していなかった(日本進駐は八月三十日)。
 ソ連も、当然ながら連合国の一員であった。その一員が、いわば夜盗のように侵攻してきたのである。

 これほどの事態だったのに、いまはよく知られていない。戦後、この大戦についてあらゆることが書かれたが、この”占守島事件"については、私は活字で読んだことがない。
 先日、なにげなくテレビをつけると、自然としての占守島が映し出された。野に、戦車の残骸がころがっていた。
「戦車ですね」
 と、レポーターのつぶやきでおわり、画面はすぐ他の自然へ移った。死者たちのために当時の変事について一言あってもよさそうなものだったが、レポーターはおそらく事件そのものを知らなかったかと思える。
 ついでながら、前記の私の友人たちは、木下弥一郎をのぞいてみな戦死した。戦車の残骸は、私にはかれらの死体のようにみえた。

 池田大佐は、撃退することを決心した。
 大佐の決心については、世の中も歴史も価値観も変わってしまった平和なこんにち、論議してもはじまらない。池田末男という人は、敵を見れば戦うことを国家から教育され、そのことを義務と思ってきた。
 大佐の命令によって、全車輛がエンジンをかけた。が、かんじんの大佐が搭乗する車輛だけが、夜の冷えのためか、エンジンがかからなかった。大佐は他の車輛に飛び乗って出発した。
 残された大佐の車輛の操縦手の准尉は、全軍が出て行ってから、車内で拳銃自殺をした。このことも、戦前の日本における倫理的事情であって、こんにちの感覚でその死の当否を論ずる必要はない。

 上陸したソ連軍は、撃退された。が、再度上陸してきた。
 このため激戦になり、多くの敵味方が死んだ。池田大佐も死んだ。
 八月二十一日になってようやく双方白旗をかかげた軍使によって停戦が成立した。日本軍の生者はシベリアへ送られた。

 以上のことは、現在のロシアを論ずる上で何の足しにもならない。
 ただ、千島列島の"ロシア領化"がどのようにしておこなわれたかを、平和と繁栄の明日をめざすロシア市民たちに知ってもらいたいのである。知れば、どんな異常な事柄でも、両国にとって好ましい昇華を遂げるものなのである。
                           (一九九三年十一月一日)

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抜粋終わり。

Wikiでもこの事件の詳細は読めますが、故司馬翁の書くあの時代を生きた人の生の歴史観を知って欲しかったので。

コメント

風神RED
2012年3月6日0:56

歴史群像で特集やってた記事あったなー。何号だっけか思い出せん。探しても一回読んでみよ。

lastphobia
2012年3月7日23:23

WikiだとNo.45て書いてありますな。(・ω・)

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