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立地地域の人間がどう考えているかを知るため、ある原発推進のための地元団体の人が書いた本を読んだ。
タイトルや著者名は出さないが、要は、原発が安全であることや良いところを皆に知らせ、消費地にはこれだけ貢献していると知らせて感謝されよう、という考えのもと出版されたものだ。
人格の良さそうなことや郷土愛は書いてある内容から感じられる。
チェルノブイリやスリーマイル島事故については多少技術的に突っ込んで記載してあるにもかかわらず、「日本の原発は外国と違って世界一のレベルだから安全」、「5重の防御があるから大丈夫」、「30年以上安全だったという実績があるからそれが何よりの証拠」、という内容で、日本の原発の安全性について技術的に突っ込んだ話は無かった。科学は疑うことから始まり、宗教は信じることから始まると言われるが、地元民にとっては原発は科学ではなく宗教と同様に捉える人もいると感じた。
こうまでして原発を誘致したがるのは、前回書いたような先細りの状況を打破するためだ。
青森県の六ヶ所村の村長は、福島で原発を視察した際、「原発を誘致すれば、仙台クラスの発展が見込める」といわれ、決断したそうだ。
では、原発立地地域での地域振興は上手く行っているのか。
福井県では、人口増加率が数%ずつ増えているという。ただし、原発の立地市町村だけだが。(近隣の市町村は交付金のおこぼれがいっているはずだが減り続けている) 青森県の六ヶ所村は増減を繰り返しつつ40年前に比べてほんの少し人口が減少している。
ただ、人口が減らないだけでも大きな成果であるらしい。まぁ、元々過疎地でかつ強い地場産業がなかった場所が選ばれるのだから、そういう捉え方もうなずける。
今回、福島県で補償を受ける農業/漁業/酪農等のいわゆる第一次産業といわれる人の割合は、統計によると全体の一割。2次、3次等のいわゆるサービス系は大抵が原発関連の仕事に従事している。つまり、原発以外の土地振興となる新しい売り物は作り出せず、更には幹線道路や新幹線を通すといった甘い話は夢物語と化している。原発を見るために福島を訪れる人など、業界人でなければまずありえないから、観光客も見込めない。元々交通の便が悪い僻地であるため、他の工場の誘致も難しい。交付金は使途が限られていて自由が利かない。そのうちに、減価償却で廃炉になると仕事も税も無くなるため、そうならないよう原子炉の増設をお願いするなど、まさにおんぶに抱っこ状態。原発があるがために、自然以外何もなかったところが中都市レベルの収入を得られるのだから、原発反対などとんでもない、という人がいるのは当然だ。
だが、仙台クラスの発展は?人口はほとんど増えないけど?こんなはずでは。。。
・・・原発の立地に関して、条件を定めている法律があり、簡単に言うと「原発の近くに人の住居等が過疎である」必要がある。安全を謳うのとは裏腹に、万が一の際に大都市圏だと大きな被害となるため、このような露骨な法律が定められている。人口が増えないこと前提の法律・・・。更には、地元に金を落とすことで多少のことには目をつぶらせる。装備したら外せない、微妙な効果のある呪いの防具でもつけたようだ。爆発したら致死レベルだが、外せないからこれまでの実績と安全神話で問題ないと言い聞かせて我慢すれば所持金が増える。外せたとしても、原発依存の体質を変えられなければ以前よりも貧乏に。
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どんなシステムでも絶対安全は存在しない。これは普通に考えれば当たり前の話で、技術者がそんなことを言ったら頭を疑われる。「安全」という言葉は、0~99%の範囲で成り立つものであって、100%などありえない。
しかし、それがまかり通ってきたのが原発の安全神話だった。恐らく営業的/政治的な考えか、安全という言葉を、0か1かで捉え、100%安全と誤解したのを利用したのか、技術的責任を負わない人間が気楽に言ったのか。
実際、もんじゅの建設時にはそんな風に話が進み、トラブルで放射性物質が漏れ出した際に約束違反と言われると基準値以下だから安全、という説明がされたという話もある。
だが、建てる前に漏らさないと誓った約束を基準値以下の水準であれば反故にしてよい、などという論理はおかしい。本来であれば、基準値以下という説明に力を入れるのではなく、最低でも次は起こらないように対策を講じる、というのが筋だろう。
現在の原発の仕様では、原子炉にカスが溜まるので定期的にベントを開いて放射性物質を放出する。水をフィルターにする等の対策を講じているという言い訳はあるが、福島事故のような緊急でベント解放をする場合にはそんな余裕は恐らくない。別に水以外のフィルター技術が無いわけではなく、スウェーデンでは既にベント解放時のためのフィルターによる除去装置が実用化されている。日本でも一時導入が検討されたが、なぜかウヤムヤになって今日に至っている。
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「都市部の人は(電気を供給している)我々にもっと感謝するべき」という主旨の発言がある。反原発派も、推進派もどちらもよく言う台詞だ。
地方の特産品を買うのに、消費者側が感謝を強要される?
最初に聞いた時は違和感を感じた。都市部の人間が色んなエネルギーソースがある中で原発を選択した訳でもなく、かつ、対価として電気代を払っているためだ。更に言うと交付金ももらってるじゃないか、と。
だが、こんな台詞が出るというのは、やはり何かあった際の不安を感じているために出る言葉なのだろう。絶対安全と信じきっていれば、こんな台詞は出てこない。
そんな安全神話も、2002年の東電トラブル隠し事件、2007年の柏崎原発火災の後は、絶対安全と言わないよう、誤解されないように指導されるケースが増えてきたという。(つい最近の伊予での原発訴訟では、安全だからという理由で判決が出ましたが)
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地元民にとって、既に原発を選択し、既にそこに原発が存在するのだから、電力会社の言うことを信じたいと思うのは自然で、これまで何も問題がないと思っていれば更に疑う必要性が無いように思われる。そして、反原発派のヒステリックに思える主張に対して、耳を塞ぐか反発する。
”あいつらは分かってない。もし電気が止まったらどうするんだ。代替案も無いくせに、無責任なことばかり言いやがって!”
続きます。
タイトルや著者名は出さないが、要は、原発が安全であることや良いところを皆に知らせ、消費地にはこれだけ貢献していると知らせて感謝されよう、という考えのもと出版されたものだ。
人格の良さそうなことや郷土愛は書いてある内容から感じられる。
チェルノブイリやスリーマイル島事故については多少技術的に突っ込んで記載してあるにもかかわらず、「日本の原発は外国と違って世界一のレベルだから安全」、「5重の防御があるから大丈夫」、「30年以上安全だったという実績があるからそれが何よりの証拠」、という内容で、日本の原発の安全性について技術的に突っ込んだ話は無かった。科学は疑うことから始まり、宗教は信じることから始まると言われるが、地元民にとっては原発は科学ではなく宗教と同様に捉える人もいると感じた。
こうまでして原発を誘致したがるのは、前回書いたような先細りの状況を打破するためだ。
青森県の六ヶ所村の村長は、福島で原発を視察した際、「原発を誘致すれば、仙台クラスの発展が見込める」といわれ、決断したそうだ。
では、原発立地地域での地域振興は上手く行っているのか。
福井県では、人口増加率が数%ずつ増えているという。ただし、原発の立地市町村だけだが。(近隣の市町村は交付金のおこぼれがいっているはずだが減り続けている) 青森県の六ヶ所村は増減を繰り返しつつ40年前に比べてほんの少し人口が減少している。
ただ、人口が減らないだけでも大きな成果であるらしい。まぁ、元々過疎地でかつ強い地場産業がなかった場所が選ばれるのだから、そういう捉え方もうなずける。
今回、福島県で補償を受ける農業/漁業/酪農等のいわゆる第一次産業といわれる人の割合は、統計によると全体の一割。2次、3次等のいわゆるサービス系は大抵が原発関連の仕事に従事している。つまり、原発以外の土地振興となる新しい売り物は作り出せず、更には幹線道路や新幹線を通すといった甘い話は夢物語と化している。原発を見るために福島を訪れる人など、業界人でなければまずありえないから、観光客も見込めない。元々交通の便が悪い僻地であるため、他の工場の誘致も難しい。交付金は使途が限られていて自由が利かない。そのうちに、減価償却で廃炉になると仕事も税も無くなるため、そうならないよう原子炉の増設をお願いするなど、まさにおんぶに抱っこ状態。原発があるがために、自然以外何もなかったところが中都市レベルの収入を得られるのだから、原発反対などとんでもない、という人がいるのは当然だ。
だが、仙台クラスの発展は?人口はほとんど増えないけど?こんなはずでは。。。
・・・原発の立地に関して、条件を定めている法律があり、簡単に言うと「原発の近くに人の住居等が過疎である」必要がある。安全を謳うのとは裏腹に、万が一の際に大都市圏だと大きな被害となるため、このような露骨な法律が定められている。人口が増えないこと前提の法律・・・。更には、地元に金を落とすことで多少のことには目をつぶらせる。装備したら外せない、微妙な効果のある呪いの防具でもつけたようだ。爆発したら致死レベルだが、外せないからこれまでの実績と安全神話で問題ないと言い聞かせて我慢すれば所持金が増える。外せたとしても、原発依存の体質を変えられなければ以前よりも貧乏に。
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どんなシステムでも絶対安全は存在しない。これは普通に考えれば当たり前の話で、技術者がそんなことを言ったら頭を疑われる。「安全」という言葉は、0~99%の範囲で成り立つものであって、100%などありえない。
しかし、それがまかり通ってきたのが原発の安全神話だった。恐らく営業的/政治的な考えか、安全という言葉を、0か1かで捉え、100%安全と誤解したのを利用したのか、技術的責任を負わない人間が気楽に言ったのか。
実際、もんじゅの建設時にはそんな風に話が進み、トラブルで放射性物質が漏れ出した際に約束違反と言われると基準値以下だから安全、という説明がされたという話もある。
だが、建てる前に漏らさないと誓った約束を基準値以下の水準であれば反故にしてよい、などという論理はおかしい。本来であれば、基準値以下という説明に力を入れるのではなく、最低でも次は起こらないように対策を講じる、というのが筋だろう。
現在の原発の仕様では、原子炉にカスが溜まるので定期的にベントを開いて放射性物質を放出する。水をフィルターにする等の対策を講じているという言い訳はあるが、福島事故のような緊急でベント解放をする場合にはそんな余裕は恐らくない。別に水以外のフィルター技術が無いわけではなく、スウェーデンでは既にベント解放時のためのフィルターによる除去装置が実用化されている。日本でも一時導入が検討されたが、なぜかウヤムヤになって今日に至っている。
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「都市部の人は(電気を供給している)我々にもっと感謝するべき」という主旨の発言がある。反原発派も、推進派もどちらもよく言う台詞だ。
地方の特産品を買うのに、消費者側が感謝を強要される?
最初に聞いた時は違和感を感じた。都市部の人間が色んなエネルギーソースがある中で原発を選択した訳でもなく、かつ、対価として電気代を払っているためだ。更に言うと交付金ももらってるじゃないか、と。
だが、こんな台詞が出るというのは、やはり何かあった際の不安を感じているために出る言葉なのだろう。絶対安全と信じきっていれば、こんな台詞は出てこない。
そんな安全神話も、2002年の東電トラブル隠し事件、2007年の柏崎原発火災の後は、絶対安全と言わないよう、誤解されないように指導されるケースが増えてきたという。(つい最近の伊予での原発訴訟では、安全だからという理由で判決が出ましたが)
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地元民にとって、既に原発を選択し、既にそこに原発が存在するのだから、電力会社の言うことを信じたいと思うのは自然で、これまで何も問題がないと思っていれば更に疑う必要性が無いように思われる。そして、反原発派のヒステリックに思える主張に対して、耳を塞ぐか反発する。
”あいつらは分かってない。もし電気が止まったらどうするんだ。代替案も無いくせに、無責任なことばかり言いやがって!”
続きます。
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